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田川簡易裁判所 昭和31年(ろ)649号 判決

被告人 西村利次

主文

被告人を罰金一万円に処する。

右罰金を完納しないときは、金五百円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

第一、罪となるべき事実

被告人は、田川郡添田町中元寺八百七十番地財団法人福岡県炭坑医療協会社会保険添田診療所に内科医として勤務し患者の診療にあたつている者であるが、昭和三十一年七月七日午前十時頃、前日蟯虫症と診断した患者白石隆一(当時一年六月)に対して、その蟯虫を駆除する目的で、同診療所において、醋酸液三十瓦(濃度不明)を注腸したところ、右白石隆一は浣腸後間もなくけいれんを起し、意識を喪失、虚脱状態に陥つたので、被告人はただちにこれが診療にあたつた。ところで当時被告人は医学上許容されている浣腸用醋酸液の濃度について適確な知識なく、又従前に醋酸液浣腸をした経験は皆無であつたから、前記のような白石隆一の症状は一応醋酸液浣腸により惹起された醋酸中毒と推定し時を移さず醋酸中毒に対する療法をなすべきは医師としての当然の注意義務であるのにかかわらず、被告人は不注意にも醋酸中毒には全く思いを致さず、前記白石隆一の症状を見てから約一時間半を経過して、白石隆一のおむつに血尿がにじんでいるのを発見して始めて同人が醋酸中毒をしたと気がついて、ようやくこれに対する療法を講じたため、前記醋酸液浣腸に基く急性醋酸中毒のため、同日午後五時三十分頃、同診断所において白石隆一を死に致したものである。

第二、証拠の標目(略)

第三、補足説明

一、本件起訴状によると、被告人が浣腸に用いた醋酸液の濃度は二%となつている。察するに被告人が任意提出した証第一号の投薬用二百瓦入ガラス瓶在中の醋酸液の濃度が、鑑定の結果約二%と認められたし、被告人や証人米森美江子等も使用した液の濃度は二%であつた旨供述しているからであろう。しかし当裁判所は「二%」とはにわかに断定できない感じがする。そのわけは次のとおりである。

(1)  浣腸に使用された醋酸液を入れてあつた瓶は、二百瓦入で、それに三分の二位液が入つていたとすると(被告人の対警供述による)その瓶自体は押収されていないことは明白である。中味の液は右の瓶から押収してある小瓶(鑑定はこの中味の液)にうつしたかも知れぬが、とにかく被告人等が「二プロ」と表示してあつたという瓶は押収されていない。

(2)  次に被告人が使用した醋酸液は、誰が何時何に使用する目的で原液(氷醋酸)をうすめてつくつたものか、被告人自身も知らないし、看護婦の米森も知つていない。診療室の隣の検査室(薬局ではない)の棚の上にあつたのを、それより数日前、たまたま被告人が一見してその所在を知つていたというだけである。瓶に「二プロ」と表示してあつたという被告人等の供述もただちに信用しにくい理由もここにある。

(3)  牧角鑑定によると、白石隆一の死体に見られた変化は濃厚な醋酸液(四十五%或は十六%以上)の浣腸により生じた変化に類似するとのことであるし、これからも被告人は二%よりはるかに高濃度の醋酸液を用いたのではないかとの疑問が生ずる。

しかし、一方被告人が二%より高濃度の醋酸液を用いたと認定できるような確証もない。被告人に前述(2)のような医師として無責任極まる点があるとしても、現実に用いられたのが「二%」だつたとするならば、そのことをもつて被告人に刑法上の過失責任を問うわけにはゆかないであろう。

二、濃度が二%でも浣腸を見合わすべきだつたとの検察官の見解にも同調できない。当時白石隆一が牧角鑑定人の仮定するような衰弱状態にあつたと認めるに足る証拠はないからである。

三、馬場鑑定人は、被告人が「醋酸中毒」と判断したのは時間的におくれたとはいえないと断定するので一言する。

浣腸直後、白石隆一にあらわれた、けいれん、意識喪失、虚脱状態という症状は、醋酸中毒に特有なものではなく、重篤な脳貧血に起因することがあるとしても、自分に確信のない醋酸浣腸を行つた直後に、患者が前記症状を呈したのなら医師としては、当然醋酸中毒に思いを馳すべきではあるまいか。被告人が醋酸中毒ということを全く知つていなかつたのなら格別、知つていて、なお一時間以上もたつて血尿がおむつに赤くにじんでいるのを見てようやく醋酸中毒に気がつくのは、医師としての注意義務違反であろう。

同鑑定人は「二%という一般には無害と考えられている濃度の醋酸液を使用したこととて、それによつて異常が惹起されようとは夢にも思わぬ際のことではあり云々」というが、当時被告人は浣腸用醋酸液の適当濃度についての知識は浅薄なものであつたことは証拠上極めて明白であるから、被告人が当時二%では絶対に異常を惹起するはずはないとの確信にみちていたとは到底考えられないところである。

四、かりに被告人が時を移さず醋酸中毒に対する療法を講じていたとするならば、白石隆一は死を免れ得たかどうかは、本件証拠上は明白ではないが、右治療の手おくれにより白石隆一の死を早めたことは前掲証拠によつて認められる。

法律の適用

刑法第二百十一条前後、第十八条、罰金等臨時措置法第二条、第三条、刑事訴訟法第百八十一条第一項本文

(裁判官 平岡三春)

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